経絡とは本来、経“脈”と絡“脈を”合わせ、それぞれ“脈”を省略したものであることはご承知のとおり。
“脈”は脈診と称するように、こんにちでは心臓の拍動、つまり脈拍と理解されているが、“山脈”という言い方からも分かるように、何かが連なり繋がっている様子を指す言葉である。分かりやすい表現をするならば、「スジ」という言葉がピッタリではなかろうか。
山脈は大地に走るスジそのものだろう。
すなわち「経脈」は縦に連なる大きなスジ道を表すわけで、「絡脈」は経脈と経脈をつなぐ細かいスジ道のことである。
経絡図において絡脈を表せていないのは細かすぎてもはや表現不能でもあるし、実務上、経脈という太いスジ道を開通させれば、自ずと絡脈如き細いスジは開いていくものであって、特に絡脈を狙い撃ちする必要性を認めなかったからでもある。
さて、古人が経絡を脈としているのは、そこにスジ道を見出しからであって、単にツボとツボを繋いで線にしたわけではないことの傍証である。むしろツボの発見よりも先にスジの発見があったことさえ見て取れる。
なんにせよ、閉塞したスジ道がよろしいはずはなく、身体の真を保つには、これらの脈を開く必要性を感じていたわけだ。
そこで手で押し、鍼を打ち、灸を据え、さらに生薬によっても(帰経作用)スジの開通を図ろうとしたことはある意味、東洋医学の眼目であったかもしれない。
ところが、いつしかそこにあるスジ道が観念上の産物でしかなくなった。つまりスジ道を実感できる医者なり術者が減り、脈はもはや単なる線としか理解されず、唯一実感できる脈拍に偏向していくこととなる。
鍼灸が脈診に重点を置くのはこのようなことが長く続いた為であって、日本漢方が腹証に重点を置くのは本来の意味での脈を感じ取ろうとした原点回帰であったような気がする。
1800年も前の傷寒論に忠実な古方派に名医が多いという事実は、方剤に含まれる生薬の種類の多さや、珍奇で高価な生薬が治癒に寄与するのではなく、ただしくスジ道に則った診断(腹証)が出来たが故のことである。
閑話休題
“脈を開く”と表現すれば安っぽいカンフー映画の如きであるが、経絡治療とは“脈”を開くことにこそ意義あるのであって、それがなされれば、あとは母なる自然の働きに任せるより他なく、人知においてはそれができ得る最良の治療手段である。
実に東洋において、治癒力を最大に引き出すキーワードは「脈を開く」ということにあるが、述べたように脈そのものを実感できる術者は途絶えてしまっている。したがって、全身的な施術は慰安娯楽に堕し、そもそもの目的を忘れているわけである。
ところが局所的な方法論で、期せずして全身の脈が開き、著効を得て、ブームになった施術法がある。
そう、足揉みである。
全息胚理論によって全身の投影と観る足部を治療の対象にするわけである。このような局所的な方法論でも全身の脈は開く。ただし、全身の経脈に影響を与えるわけであるから、かなりの強圧が必要で、ある意味、これが足揉みの弱点でもあった。しかし、手技において脈を開く技術が廃れてしまったこんにち、これらの方法はテキメンの効果を表し、多くの信者を生んだ。
「痛ければ痛いほど効く、強ければ強いほど効く・・・云々」
刺激量に限度はあろうけれど、まるきりの見当はずれではなく、足という限局された部位によって全身の脈を開くには相応の刺激量が必要であることは述べたとおりである。
それによって、どこに行っても治らない難治性の病が寛解していく様は痛快でもあった。
安全な足であるが故に思い切った強い施術ができるという強みを生かした施術方法であるが、これも述べたように弱点にもなるのである。
つまり、ヤワな施術では全身に影響を与えられず、全身の脈を開くことができない。さらに病弱な虚証タイプには刺激量が多すぎてかえって悪化させることもあった。また、時代とともに、患者自身が痛みを強いられる施術法を避ける傾向も出てきて、四半世紀前に比べ、守備範囲が格段に狭くなってしまったのである。
ヤワな足揉みではリラクゼーションにしかならず、かといって強圧する足揉みでは嫌われる。一見すると足揉みが市民権を得たかのようなこんにちだが、このように転換期にさしかかっているといえよう。
第三の道として、足のみで終わらせず、脈を開く前段階として位置づけ、そこから全身施術を行うという方法論にしたらどうか?と考えたのは、もう15年以上も昔のことであった。
足揉みによってすでに脈は開きかかっており、そこへ全身施術を加えるわけだから、非常に緩みやすい。これをセットで施術することによって、大きな効果を挙げてきたと自負している。所謂、「体内浄化プログラム」という名称をもってクライアントに薦めたわけだ。
考えたとおりの効果が発揮され、クライアントの評判も良かったのだが、問題点がないわけではなかった。
時間がかかるのである。足を充分に施術し、さらに全身をくまなく操作するには2時間半という時間が必要であった。
当然、それに見合う施術料も必要だろう。
ということは、それを受ける層は限られ、万人向けではないということだ。富裕層に特化した施術法として考えれば、それもありだが、事業家ではなく、施術家としての正直な気持ちはより多くの人に施術を受けてもらいたい、ということでもあるし、より多くの回数を受けてもらいたい、ということでもある。
施術家としての出自は足揉みであるから、それなりにコダワリがあって、施術を組み立ててきたが、自身の病気を期に、それらを考えなおすことになってしまったのは偶然だろうか。
原点に立ち戻って考えると、クライアントにとって必要なのは施術家のコダワリでもなく、変なプライドでもない。要は、痛みから解放され、病が瘉えることを切実に求めているわけであるから、それに応えるのが施術家の真の役割だと言えよう。足を揉むことなく、全身の脈を開く施術法を会得する時期にきていると思ったものである。
考えてみれば、足揉みと出会って27年、足を全く揉まないという施術はほとんどなかったと言ってよい。つまり自身にとっては施術の大転換なのである。
曲がりなりにも2年がかりで、足の操作なしで脈を開く方法を会得したと思っているが、最初は非常に変な気分であった。30年近くやってきたことを止めるのだから、当然か・・・
今でも、昔からのクライアントが施術料を上乗せしても良いから、昔の方法でやってくれ!と頼まれることがある。残念ながら、要望にはお応え出来かねるのが現状で、申し訳なく思っている。
足の効用は局所によって全身の脈を開くことができる、という利点は述べた通りであるが、弱点があるとも言った。
その弱点を克服するために足の操作の後、全身施術を行う「体内浄化プログラム」というメニューを考案したのだが、では、それ以外に弱点を克服する方法はないのだろうか?
つまり強圧せず、かと言ってヤワにもならず、相応の気持ち良さを与えながら、施術することによって、開脈できる方法はないものか?ということである。
実はその方法で全身十二経の開脈は非常に難しい。
ところが、視点を変えて、足が得意とするところの経脈に絞って(割り切って)行うならば、可能である。
その得意とするところの経脈は腎ー膀胱経である。
腎経はすなわち内分泌系、膀胱経はすなわち自律神経系を統御する経脈である。
ホルモン系と自律神経系は密接不可分の関係にあることは、こんにちでは周知の事実であろうが、これを2千年前から陰陽関係とした古人の知恵には敬服するしかない。
さて内分泌系、自律神経系は適齢期のご婦人を常に悩ます問題でもあるから、これらの諸症状が適応症だということは施術家にとって強みだろう。つまり、足揉みは上手く行えば、ある種の人々にとって常に本治足りえる施術手段でもあるということである。
全身十二経の開脈には今一歩及ばずとも、内分泌系、自律神経系に大きな影響を与えることができるというだけでも、施術家にとっては朗報である。リフレクソロジストと言われる施術者の何割がこれを認識しているかは知らないが、自分の行う施術の強みを知らない、ということは損をしていることにならないだろうか。
今一度、足揉みの意義を経絡から考察してみたわけだが、もちろん、経絡的な見方が全てではなく、様々な考え方がある。また私自身、必ずしも経絡的な見方のみで施術を行なっているわけではない。しかし、経絡反応というものがあることは実感できるし、経絡がなぜ“脈”で、なぜ“スジ”なのかも手指で感じ続けている。
出自が足揉みで、かつ全身の経絡反応を実感できる立場にいる(いた)施術家はそう多くはないと思うので、あえて記述した次第である。