陰陽論Ⅱ

 「陰陽論の本質は陰に隠れて見えないところに物事の価値がある」ということは述べてきたとおりである。


 もう一つ、陰陽論の特質は、その相対性であろう。
 

 陰陽は常に相対的なものであって、絶対的"陽"というものもなければ絶対的"陰"というものもない。 常に相対的なものであるというところに面白さがある。


 例えば、顔色がすぐれず青白い人がいるとしよう。

 顔色が悪いというのは誰でも分かるわけだから、これを"陽"と考えたとき、"陰"は身体の内部にあって眼には見えない血流ということになるだろう。


 しかし、血流は誰にでもイメージできる。これを"陽"と考えたとき、"陰"とはなんであろうか?
 諸論はあろうが、血流をコントロールしている自律神経が"陰"に相当するに違いない。では自律神経を"陽"とした場合、それを突き動かしている"陰"はなんだろう?


 西洋医学ではこれ以上追求できないことになっているが、東洋医学では答えを用意している。


 経絡である。
 自律神経が"陽"ならば、経絡はそれをカゲで支える"陰"となる。

 

 では経絡を"陽"とするなら"陰"は?
 これはもう、そもそも経絡現象を起こしてしる生命(いのち)そのものではないか。

 

 これで終わりではない。
 生命(いのち)を"陽"とするならば・・・・
 その対極にある死であることは明白である。
(なんと生は死によって支えられていることになる)

 

 今、死以上の陰は考えつかないが、「陰、極まって陽となる」という陰陽論の原則に従うならば、再び生となる「輪廻転生」説や「天国の門が開かれる」の説を暗示しているではないか。

 

 このように陰陽論は、人生を生き抜いていくための処世術のヒントでありながら、突き詰めていくと生死の問題を扱う哲学にまでなってしまう。

 

 しかし、ここまで来ると一施術家が論ずる範囲を超えてしまうので、論を元に戻したい。


 施術への応用であった。
 施術の世界では伝統的に陰陽とは言わず、虚実という。
 虚が陰で、実が陽であることは論を待たないだろう。

 

 「実」は誰にでも分かる硬い部分-硬結ともいうべきところに異論はないはずだ。
 また実際に症状がある部位もまたす誰にでもすぐに分かるという意味で陽、すなわち「実」である。


 前者において
(ああ、ココが硬いな、この硬い部分を解そう)
 後者において
(あ~そこが痛いのですね、ではそこを重点的しましょう)


 いずれも間違いとまでは言わないが、そのことだけに終始すれば、実(陽)だけを攻める施術となるわけだから、本質に少しも近づいてはいない。つまり浅い施術であり、素人施術でもある。


 素人が逆立ちしても見えない本質的な原因となっている虚(陰)を見なければそれを正業としている、言葉を変えれば「プロ」ではないのは道理ではないか。


 流派は違うが、例えばカイロプラクティックを例に挙げてみる。カイロといえばバキッとかボキッとイメージが強いが、それは施術の側面にすぎない。つまり陽の部分だ。


 ではそれを支えている陰とは何か?
 なぜ、そこに矯正が必要なのか、という診断に他ならない。

 

 この診断は実に地味である。
 椎骨を一つ一つ調べ(間違いない!ここだ!こここそ矯正を必要としている部位だ!)という術者の確信によってはじめて矯正技が使われることになる。
 

 この診断は素人には分かりずらい、というより想像もできまい。 長い間訓練した結果として身に付いたこの能力(陰法)によって、はじめて矯正(陽法)を執行できる、という事実を忘れてはいけないのである。

 

 もし、これを診断なしで行えばどうなるか?
 椎骨の矯正技は究極の瀉法(陽法)であるから、陰に支えらえていない陽の極大化は当然ながらバランスされずに、身体にとっては極めて危険なものになるだろう。 一時期、それらによってクライアントが全身不随、半身不随に陥り社会問題になったが、これらを引き起こした施術者は正しい診断を身に付けていない未熟な者であったことが容易に想像できる。
(正しくカイロを身につけた者には迷惑千万な話であったに違いない)


 ことほど左様に陰陽という概念は重要である。
 では、我が流儀において陰陽論を展開した場合、どのようなことが言えるだろうか?


つづく・・・

 

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