冷え性

 単なる冷え性ではなくて、「冷え症」と表記すべき深刻な状態の者もいるが、ここでは習慣に従って、冷え性と記することとする。
 さて、この冷え性。大別とすると、手足などの末端が冷える者と内臓が冷える者に分けられる。


 基本的には同じような機序によって起きる現象であるが、内臓の冷えの方がより深刻である。なぜ深刻なのかを説明する前に、まず、手足の末端の冷えがなぜ起こるかをザックリと説明しておきたい。


 ヒトの血管には動静脈吻合(どうじょうみゃくふんごう)という機能があるのはご存知だろうか?


 簡単にいうと動脈と静脈を途中でつなぐバイパスのようなものである。
普通、動脈血は末端まで流れ、栄養と酸素を補給した後、二酸化炭素や老廃物を運ぶ清掃係に変身する。つまり動脈血ではなく静脈血になるのだが、当然、路線は動脈ではなく静脈に変わる。こうして各担当器官臓器まで運ばれ、老廃物除去やらガス交換などをして、また新鮮な動脈血となり循環するはずのものだ。


 ところが、その途中でバイパスによって末端まで血液を行かせないという機能が備わっているという。この事実は何を意味するのだろう?奇異に感じないだろうか?栄養と酸素を末端まで運ぶ必要がない!と言わんばかりの機能なのだから。


 実は、簡単な話で、末端よりも重要な器官を守る機能なのである。
 凍傷を考えてみてほしい。


 より厳しい寒さに直面した場合、その凍傷度合いはより深刻である。
 アルピニストが遭難して救助された場合、手足の指が腐り、切断やむなき至る例は身近にいなくとも、どこかで見聞きくらいはしているだろう。


 重要な器官に凍傷が起きた場合は死に至る。しかし、決して愉快なことではないが、手足の指くらいなら、措置さえ早ければ死ぬことはない。つまり、身体は栄養と酸素を、そして熱を配分するのに優先順位をつけていることになるのである。多少、不便ではあっても、生きながらえる道を選択していることになる。


 このように末端まで血液をあえて行かせないという機能が働くと、手足の冷えが生じるということになるのだ。何事にも理由があるという典型例ではなかろうか。


 そう考えると、手足が冷えているからといって、手足を温めたり、手足の施術をすることは対症療法でしかないということに気付くはずだ(無意味だと言っているわけではない。対症療法もまた立派な療法の一つである)

 

 より本質的な治療を加えるとするならば、重要器官の冷えを取り去って、動脈血が途中でリターンしなくとも良い環境にすべきだろう。

 

 もう一度復習しよう。
 手足の冷えの根本原因は、重要器官の冷えを防ぐための自衛作用であるということ。いわば、防御反応の一つである。

 

 では、重要器官とは何か?
 脳は当然、最重要器官だが、昔から「頭寒足熱」といって冷えには強い(というか、むしろ少し冷やすべき部位だ。頭を冷やせ!という慣用句があるように・・・笑)ということで、これは除外して構わない。だからといって、氷点下10度以下で帽子も被らず過ごして良いわけではないので念のため。物事には限度がある。


※私の住む地域は、真冬になると外気温がマイナス20度前後にもなるのが日常である。そういうときに毛髪が豊かな者以外、帽子なしで長時間、外に居ることは自殺行為である。そう考えてみると、毛髪には意外なほど保温効果があって、これがホントの脱帽モノというやつだ。いや冗談抜きに・・・

 

 脳でないとすれば後は自ずと限られてくる。
 腹腔内臓器である。

 

 過去ブログで言及した「内臓の浮腫み」という概念と通じてくるが、深部リンパ流の停滞、血液循環の不全から冷えが生まれてくるのは理の当然であろう。そして極度にお腹を冷やしても、同じことが起きる。


 按腹が平安時代に全盛を極めたのは、当時の首都が京都だったからだというのと無関係ではないような気がする。
※当時は按腹とはいわず「はらとり」と言った。


 「京都の底冷え」は有名であるし、知り合いに、一冬だけ京都で過ごさねばならない事情の者がいたが、関東の寒さとは質的に違う何かを感じたと証言している。つまり「底冷え」の意味を体感したと。盆地特有の冷え込みに加え、京都の地下には琵琶湖の水量に匹敵するほどの地下水脈があるらしく、これに人間の体感センサーが反応するという説もある。


 いずれにしても、京都の冬は意地悪なほどに冷えるのは確かなようだ。
くわえて、家屋の構造が夏の殺人的暑さを凌ぐため、通気を優先させた作りとなっている。寒いのは重ね着で対処できるが、暑いのは裸以上になれないという理屈で冬の快適性を犠牲にするのが、日本の伝統的な家屋構造であった。さらに昔は、現在ほど食物が豊富ではないため、摂取カロリーが低かったという事実もある。こんな中で過ごしていては、冷え冷え人間が多くなるのは当然のことではないか。


 そこで、身体全体を温めるのに按腹が珍重されたのではないかと推測できるのである。当時、動静脈吻合などという概念を知るわけがない。しかし、経験から、単に手足を揉むよりも按腹によって冷えた臓腑の気血の流れを良くし、温めることのほうが、より冷えが改善でき、のみならず臓腑の冷えからくる諸病に著効があり、また百病の予防になると知っていたのではないかと思えるのである。また世界では類例をみない「腹巻き」の習慣もここに源流があるような気がする。


 話を戻そう。
 腹部(腹腔内臓器)の冷えは、そのままリンパ流の停滞や血流不全を招き、それは逆もまた真なりである。そして、その冷えがそのまま消化器系等重要臓器の機能を低下させる。これを防ぐために手足の血流を犠牲する。そしてそれは直接的な冷えの感覚を呼ぶのだ。これが冷え性の正体であり、原因である。

 

 冒頭に手足の冷えと内臓の冷えに大別されるが、元を正せば同じであると述べたのはそういう意味である。
 

 そして、内臓そのものに冷えを感じた場合、より重症であるという意味は、もはや動静脈吻合によって手足にいく血流を犠牲にしても、内臓の機能は保全されないというレベルに来ているからに他ならない。
 

 興味深いことに東洋医学では「胃」が体内の熱を生み出すとしている。その胃そのものが冷えていて機能不全に陥っているならばまさに悪循環であって、低体温が常態化することになるだろう。免疫力が落ち、ガンや感染症リスクが高るのはいうまでもないことだ。


 こうなると食養も重要になるので、それなりの工夫が必要になると思う。加えて、整体的なアドバイスをするならば、やはり古人に倣って「按腹」をすべきだろう。冷えの元凶を元から断つ方法はこれ以外にない。

 

 按腹が末端の関節炎(リュウマチも含め)の根本治療になり得るとしているのは、冷えている内臓を温め、動静脈吻合機能を不要にした結果、末端までの血流が回復し、発痛物質や老廃物が洗い流される為だったわけである。


 古人の知恵に敬服すると共に、冷えは昔から日本人を苦しめてきた悩ましい症状でもあったことが分かるのである。

 

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