客層三態

 施術業を営むということは、大なり小なり、身体に問題を抱えている人を相手にしなければならない。全くの健康体で、なんら施術の必要性のない人が絶対に来ないとは言わないが、かなり少数派だろうと思う(例えば、他人に身体を触ってもらうのが趣味とか・・)。このような例外はこの度の論考の対象にはしないということをご承知置き願いたい。


 さて、身体の問題を抱えている言っても、それは千差万別で、病の軽重、症状の浅深はいうに及ばず、百人いれば百通りの歪みを持っていると言ってもよいだろう。これらを一つ一つ、論じるのは不可能なので、便宜上、三つに分類したいと思う。


すなわち、
①首肩腰等のコリ感、疲労感を訴えてくるクライアント層
②コリ感にとどまらず、痛み等の具体的症状を訴える層
③いわゆる難病・奇病に相当する病を抱えている層(指定難病も含む)

 

 大雑把な分け方で申し訳ないが、論を進めるにあたって最も効率的で分かりやすいと思うので、上記に沿って論考しよう。

 

 まず①のコリ感が主訴の客層について
 これが最も一般的ではないだろうか。
 いわゆる、癒し系のサロンや健康ランド系のサロンで施術をすると、この客層が最も多いと思われる。特に首、肩のコリの症例は多くなるに違いない。また深刻ではないために、どちらかというと、気楽な要望をしてくる客層であるかもしれない。


 例えば、30分コースを選んだ人に「どちらがお疲れですか?」と問いかけたとしよう。
 客 「そうねぇ、首、肩、腰、あ~そうそう足も最近疲れているなぁ」
 施術者 (げッ、30分でやれってかい!)←心の声
 そして追い打ち。
 客 「そういえば、背中も苦しんだよね・・・ついでにetc・・・」
 施術者 (・・・・・・・・)


 いわゆる「慰安系施術」にも分類される層なので、基本的に施術者に対するリスペクトがあまりないのが特徴である。サービス業である以上、接客には細心の注意を払うべきなのは当然であるが、「お客様は神様だ!」的な振る舞いが鼻についてくるとこちらのやる気が失せてくることもある。

 

「お客様は神様です」の決め台詞で有名だった故三波春男氏は、金を払ってくれる客は皆、神様だ!という意味で言っていたのではない。もともと日本において芸事というのは(ギリシアでもそうだが)、神に捧げる儀式であって、芸能自体が神事であったという歴史がある。「いつも神の前にて演じるが如く、つまり、あなた方お一人お一人が神様だと思って、真剣に、心を込めて演じさせて頂きました」という意味での神様発言であったのである。それがどういうわけか、金を払う客は神様なんだから、何でも従え!みたいな風潮になって、性質(タチ)の悪いクレーマーを生む土壌となってしまった。最近では店員に対する土下座強要事件などが報道されてもいるが、何を勘違いしているのだろう。件(くだん)の神様発言は世界で最も接客マナーが良い国というプラスの面を育んだが、度を過ぎた勘違い客を生む土壌ともなった。

 

 私自身は経験がないが、聞いたところによると「どこがお疲れですか?」の問いに対して「そんなもの、触りながら自分で考えろ!」と言ってのけた客もいたそうな。


 江戸中期の漢方医、大田晋斎は、手技が賤業と見くびられていることを嘆いているが、実に200年以上前から、そういう図式があったということになる。


 また症状としてのコリ感というのは痛みとは違って、原因と症状のズレがあまりないという特徴がある。痛みならば、痛いところとその痛みを生み出している原因が違う部位にあることが多いが、コリ感は、そのコリ感があるところそのままが原因であるということだ。

 

 そういうこともあって、この客層に求められる技能は、人間の身体に対する深い理解や見識ではなく、その凝った部分をほぐし、如何に満足させるか、というところに集約されてくるだろう。これは、さほど勉強も要らず、ある程度の経験の中でこなせる程度のものであるから、こういう客層ばかりを相手にしていると、段々と物足りなくなってくるし、如何に楽して金を稼ぐか、という本当の意味で賤業化する危険性も出てくる。(客が寝入るととすぐに手を抜いた施術をするとか・・・)

 

 そこで、自身と自流派のプライドから、こういう客層をはじめから相手にせず、お断りする流派も出てくる。これはこれで、ビジネス面では差別化になるであろうし、自身、慰安婦(夫)ではない!というプライドも保たれるので、ケチをつける筋合いのものではない。

 

 しかし、個人的には少し違う見解を持っている。コリをほぐすというのは、簡単そうで、実は簡単ではない。先ほどの見解と矛盾するのではないか、という向きもあろうから、少し説明したい。


 筋肉を強制的にほぐそうとすると、副作用が出てしまう。この極端な表れがもみ返し現象だ。もみ返しとは微小な組織破壊による軟部組織の炎症である。これによって、修復の度に強度が増し、次第に硬化していく。繰り返すと、マッサージ性コリ症候群に陥る。それはあたかも、頭痛を和らげようと頭痛薬を連用するうちに薬剤性頭痛になってしまうようなものだ。或いはアトピーを抑えるのにステロイドを使い続け、遂にはステロイド性皮膚炎に変化するようなものかもしれない。コリをほぐすことがコリを呼ぶという、よく考えてみれば医原病にも匹敵する由々しき事態ではないか!


 つまり、そのような事態を招かないように、ほぐすコツを会得しなければならないのだ。(ほぐすという言葉は好きではないのだが、便宜上使っている)


 さらに、プロである以上、クライアントに「あ~楽になった!」と言わしめ、満足させねばならない。このような訓練が整体の基本中の基本であるような気がするのである。


 何十年も修行して、すでにその段階は過ぎたというのなら分かるが、初学者に対して、自流派はそういう客層は相手にしないのだ!という論法が果たしてその人の為になるのか、どうなのか・・・・

 

 また、この種の客層(コリ性の人)は、仕事や生活を替えない限り、またコッてくる。つまり、定期、不定期問わず、リピーターになる可能性が高い(もちろん、気に入ってくれたらの話ではあるが)。経営的に重要な、生活の原資となる客層でもあるということだ。場数を踏む訓練にもなって、基本を身に付け、さらに生活の糧ともなるこの客層を疎かにしてはイケナイと思うのである。


 ということを踏まえた上で、如何に自分の施術家としてのプライドを保つかということなろう。サロン勤務者は、客の選り好みは出来ないかもしれないが、開業者ならば、あまり態度のよろしくないクライアントを 波風立てず、断る方法はいくらでもある。


 これらを含めて、卑屈にもならず、偉そうにもしないという自然体を身に付ける絶好の機会ではないか!ということでもある。結局、施術というのは「平常心」「自然体」が最も要求される仕事なのだから。

 

 またコリが原因であることによる病気は多岐に渡る。コリは、先の大田晋斎の著作によると、当時の表現で「癇症疝気(かんしょうせんき)」と呼ばれる病態を生むとしている。これを現代風に解釈すると、とてもここでは書ききれないほどだ。ほとんどの症例が当てはまるのではないかと思うくらいである。「コリは万病の原因だ」とする施術家が多いが、そもそもの出処と根拠は大田晋斎の著作に依るものだということが分かる。古典が絶対とは言わないが、先人たちが蓄積したきた経験値を軽視すべきではない。これらのことから、コリ解消を求めてくる客層は一見慰安を求めているようでもあるが、施術の意義としては数多くの病の予防となることを肝に銘じるべきであろう。
※大田晋斎の著作=「按腹図解」のことである


 以上のことによって、①の客層は大事にすべきと考える。特に初学者においては、充分な数をこなすことをお薦めする。

 

続いて、②の痛み等の具体的な症状を抱えた客層についてである。

主に運動器の痛みのことをいうのだが、これも整体師としては日常的に接する客層だろう。①の単にコリ感を訴える客層よりは深刻な悩みを持つ層であり、結果さえ出してあげればリスペクトされる度合いも比較にならない。そして、この客層を相手にするもっとも重要な意義の一つは、施術者本人が仕事としての満足感を得られるかどうかの大きな分岐点になるのではないか、ということだ。つまり、単に慰安婦(夫)で終わるのか、施術家として依って立つ処のバックボーンを持つに至っているのか、という違いである。この違いは大きい。


 確かにコリを解消してあげて感謝されもしよう。しかし、具体的に「痛み」という症状を取る、もしくは緩和できるという自信は施術家としては何ものにも代え難いと思う。というよりも施術家たる基本条件ではないだろうか。これが出来ずしては、慰安婦(夫)と呼ばれても仕方がないだろう。慰安娯楽の世界でいかにゴッドハンドなどと呼ばれたところで、何も嬉しくはない。
※あくまでも個人的な意見である。慰安娯楽で何が悪い!と言われたら「何も悪くはありません」としか言いようがない。ただし、そのあと「私は嫌ですけど」と付け加えるが。


 理想は①の客層を満足させることができて、さらに具体的な痛みを取ることが出来る、ということではなかろうか。かつ、両者において技法が特別違ってはいないという効率の良さをもっていれば尚無駄がなくて良いわけだ。これが「癒し系と治療系の高度な融合形態」として数十年に渡って腐心してきたところのものである。


 さて、先にも述べたが「痛み」は症状部位と原因部位の不一致があるところに難しさがある。コリ感ならばどこが凝っているか、どこの筋肉が疲れているか聞けば、それがそのまま原因アプローチに繋がる。それが通用しないところに、難しさというか、巨大な壁が存在するのだ。


 東洋的にはこのような不一致の原因側を「虚のコリ」と呼ぶ。コリ感を生み出している「実のコリ」と正反対(陰陽)の、という意味で、それは目に見えず、指でも感じづらい。だから、そこが凝ってはいない、とか、凹んでいるという意味ではない。それらを超越し、あくまで、陰に隠れて見つけづらく、まるで存在しないように感じるという意味の「虚」である。私は経絡理論及び、経絡反応実技から全身整体の道へ入ったので、まさにこの虚のコリを見つけ出すのに難儀した。それは難事中の難事であると言っても過言ではないだろう。


 ところが、あるとき、トリガーポイント理論とその体系に接する機会があった。そしてその体系は、全体の7割~8割くらいが、症状とは違う部位を原因としている。


 なんと!!これは虚のコリではないのか!!


 このときの驚きは中々表現するのは難しいのだが、驚いてばかりもいられない。タダチに検証作業に入ったことは言うまでもないだろう。もし、それが「虚のコリ」であるならば、もっとも反応し、もっとも効果的なのは経絡反応を引き起こす手技によってである。つまり、検証作業とはそれ以外の手技で行わねばならないということだ。いわゆるマッサージ的な方法論やら、その応用でストローク技法などを試したものである。結果は歴然であった。経絡反応を起こす手技によって、もっとも高い確率でトリガーポイントを沈静化できるのである。
※トリガーポイントの沈静化=東洋医学的には「虚を補す」表現する

 

 虚のコリを体系化していたのか!!
 西洋の体系化(マニュアル化)文化を侮ってはいけないと、つくづく思ったものだ。しかし、技法的には東洋文化に一日の長がある。筋解剖の方向へは進まなかったが、その代わり気血の通路として経絡を発見し、その中で人体に対する深い知見を得てきたという歴史がある。そして、その精華は少なくとも手技においては、その技法、なかんづく、按法にあるのだ。


 個人的なこうした発見によって、西洋と東洋の融合的な手技体系を確立できたし、また真の意味での「癒しと治療の融合」を成し遂げたと思っている。
※勿論、体系から外れる症例もある、個別反応と呼んでいるところのものだが、体系を知り得ているからこそ、それが分かるし、対応策も取れるのだ


 こうした知識と技能を得たならば、②の客層の来院が楽しみになるだろう。特殊要因さえなければ、まず、治せる(緩和させ得る)という自信は、ゴチャゴチャしたどうでもいいいような小細工を不要にする。精神衛生上も大変によろしいし、長く続けられる秘訣ともなろう。


②の客層、つまり具体的な痛みや症状を持つクラアント大歓迎!という境地になってはじめて施術家と言えるのではないだろうか。

 

③難病、奇病を抱えている客層
 開業し、この仕事を続けていると、遅かれ早かれ必ず遭遇する層である。もちろん、簡単ではない。簡単に治るならば、それは難病とは言わないはずだ。全力を尽くしても治らないケースが多々あるにせよ、しかし、手技の良さは、ほとんどの場合で、症状が緩和するということである。


 その病で苦しんでいればいるほど、この緩和だけでもどれほど有り難いことだろう。そのような例を数多く見てきたし、また手がけてもきた経験からそれを実感する。


 人間の身体にはもともと治癒系システムが備わっている。病が深くなく、かつ充分な体力があれば、自然にこの治癒系機能の発動スイッチが入って、いわゆる自然治癒していくことになるわけだ。ところが、これから漏れてしまう(遺伝的なものなど原因は様々)病もあって、そうした場合、持病として固着しはじめる。その歳月が永ければ長いほど、発動スイッチのありかが少なくなって、遂にはなくなってしまうのである。


 経絡に損傷伝導系という考え方がある。充分に熟練した術者による体表刺激は、患者の問題箇所(病の原因)に伝わっていくというものだ。それは身体のどこを刺激しても、その患者にとって必要な部位へと伝わる。ところが、病も深くなってくると、身体のどこを刺激しても良いということではなくなり、その人にとっての治癒系発動スイッチ、つまり、その人にとっての固有のツボを探り当てねば、問題箇所に影響を与えられなくなる。すなわち、術者はその人のもっとも必要とする部位(ツボ)を探り当てることに生涯をかけることになるだろう。こうして鍼灸の名人、達人が生まれる。(その確率はわずかだが)

 

 手技の場合はもっと柔軟に考えて良い。取穴に命をかけるほどの修行をしなくとも、もっとフレックスに、自在に手を移動していけるだから。②の客層ならば、大概はトリガーポイント体系の範囲で治癒系発動スイッチを探せるのだが、さすがに③難病奇病ともなると、それだけでは足りなくなる。


 体表刺激を基本としながらも、「百病、腹に根ざす」の格言どおり腹部の施術、すなわち「按腹」に重点を置くか、頭蓋仙骨系のリズムを診て、それらを整えるか、仙腸関節の非荷重(構造医学概念)から、下肢系の歪みを矯正するか、或いは、それら全部を行うかの措置が必要になってくることが多い。


 按腹の威力は確かに非常に大きいものがある。大田晋斎が「起死回生の妙境に至るべし」と述べているが、数のうちにはそういうこともあっただろうと思う。古典特有の誇大表現だ!で片付ける気がしないのは自身、多くの按腹施術をやってきた実感からである。

 

 頭蓋仙骨系のリズム回復という概念は、ここ20年ほどで、ほぼ術者の間では知られることとなってきた。しかし、一般的にはまだまだ浸透しておらず、施術していても身体で理解できないクライアントが多い。しかし、大病、難病、奇病系の層には、それが自分にとって良い影響を与えてくれている、ということを理屈抜きで理解してくれるのである。難病奇病系には非常に心強い手技であることをあらためて表明しておきたい。

 

 仙腸関節の非荷重概念は、その用語そのものは構造医学から来ているが、原理的には三関節(足関節、膝関節、股関節)の不連動から仙腸関節のズレ、もしくは不潤滑を生み、身体全体に不都合を及ぼすという考え方である。個人的には足揉み(リフレクソロジー)出身の施術者なので、足元からくる歪みの全身波及という考え方は、素直に受け入れることができた。

 

 以上、按腹、クラニアル・マニピュレーション、フット・マニピュレーションを駆使して③難病奇病に相対していくわけだが、その時点での全知を傾けても、結果が必ずしもすぐに付いてくるとは限らず、施術ストレスが増大して、施術家として、悩み多きひとときを過ごさねばならないかもしれない。

 

 そこで結局要求されるのが前述の平常心でもあり、自然体でもあるわけだ。最もシンプルで最も容易な心境にも思えるが「いついかなるときも」という形容詞が付くと、これほど難しい境地もないだろう。一生修行と言われる所以である。


 最後に言及して置きたいのは、何度か機会ある毎に述べていることだが、②の筋骨格系が原因での痛みや症状を治す実力もないのに、③難病奇病ばかりを追いかける術者をたまにみかける件についてである。何十万人、或いは何百万人に一人という生まれながらのヒーリング能力を持って生まれてきた者なら別だが、大概は違う。つまり、施術家として逃げているとしかいいようのない一群の輩と言えよう。最短で効果が出る症例についてはキッチリ結果を出す実力を持ち、その上で、難病奇病と向き合うのが施術家としての真っ当な道ではないかと思う。

 

 慰安娯楽に徹している施術者を非難する気になれないが、難病奇病系ばかりを追いかける施術者には、なにか詐欺師的な胡散臭さがつきまとっていて好きになれない(本物に出会ったことがない)。私的には要警戒人物のカテゴリに入っている。もし周辺にいたら遠ざけるようにした方が身の為である。

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